ただ、私には、今回の原発事故への東京電力や原子力安全保安院などの後手後手の対処のやり方が、
太平洋戦争終戦時のポツダム宣言を受けてから受諾までの大本営(主に陸軍参謀本部)の右往左往した姿勢と重なってみえてなりません。
今回の原発事故と共通すると思うのは、状況の判断において、勝ち目の薄い戦いを続ける(破損の著しい原子炉を復旧させる試み)リスクと
降伏(破損が致命的になる前に廃炉の決断をする)を受け入れるリスクの合理的計算が試みられず、プライドや己の主義主張が先行して
“負け”を認めるメリットに目がいかず、判断を迷っているうちに戦い続けるリスクが増加して状況を悪化させてしまう点です。
(希望的観測と客観的現状を混濁する)
連合国がポツダムで日本に無条件降伏を受け入れるよう宣言したのが昭和20年7月26日。それから宣言を受け入れる8月14日までの約3週間、
当時、日本の現状は、武器や燃料・食糧などがほとんど尽きかけているにもかかわらず、大本営では戦争推進派を中心に負けを認めたがらずに、
(少しでも降伏の条件をよくするためにも)本土決戦(といっても上陸してくる敵に人が爆弾もって飛び込むようなゲリラ戦しかできなかったはず)を
やるべきだと主張する人たちが多くいたと聞いています。
(戦後、ある参謀本部のメンバーが、「やはり本土決戦をやるべきだった。それで日本が滅んでも誇りが残ればそのほうがいいじゃないか」と発言。)
もし、ポツダム宣言受諾が早ければ原爆2発はもらわずに済んだ可能性が高く(諸説あるのは存じてます)、3週間の間に数々の特攻作戦や
持久戦で死んでいった人々の命も無駄に散らずに済んだはずです。
(放射能汚染の拡大を最小限にする工夫の余地はあったはずで、朽ちかけている原子炉の危険な環境下で何か月も作業しなければならない
下請け会社の作業員の負担の増大を防ぎ、栃木のキャベツ農家は首をくくらずにすみ、海を汚染することも防げたはず)
もちろん、事後に「あの時ああすれば良かった。」と第3者が発言することは簡単であっても、
己がそのとき問題の真っ只中にいる当事者だったとした時に、その“判断”をすることの難しさは理解しているつもりです。
あまり原子力推進派の立場にたって考えたくありませんが、彼らにしてみれば、長年エネルギー問題の解決法としての原子力政策に誇りを持って
いたでしょうし、これまで推進に傾けてきたエネルギーの数々が今回の事故のためにご和算になることだけは避けたい気持ちもあったのだろうと
推察されます。しかし、その推進派側の考え方からは、もし事故が起こった場合の被害者側の立場や周辺に与える影響の規模に対する発想が
欠けていたとしか思えず、(新潟地震における柏崎の原発事故を教訓にすることなく)過度な楽観視から老朽化や古い耐震基準に対する対策が
行われてこなかった結果、今回の惨事を招いたことの責任と反省はしっかりなされなくてはならないでしょう。
戦時の総司令部という立場や原子力推進という(素人を遠ざけるのに格好な専門領域という独壇場)ゆえに閉鎖的な体質の組織の独断専行をゆるし、
遠く離れた机上の空論ともいうべき希望的観測とそれに基づく甘い状況判断が現場とその周辺にもたらす被害の拡大について、この国の終戦の
かたちと重なって思われるのは、今回の東電や保安院(また背後の原子力推進派)の現状認識と対処の仕方(鈍さ)ゆえではないでしょうか.
追記:毎日新聞によると、水素爆発前に官邸がベント(圧力を下げる)指示をだしたにもかかわらず、保安院は「東電が判断すること」と判断を放棄し、
東電は動かず、内閣府にいた原子力安全委員長の班目春樹氏も「総理、原発は大丈夫なんです。構造上爆発しません」と甘い見通しを告げたとのこと。
その後総理は直接現地で話すために陸自のヘリで原発へ視察に行った。
原子力安全委員会も頼りにならないのか・・・。